イエス様のくびき

聖句:”そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」” マタイの福音書 11章25~30節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

観察:

            この章の初めに、ヨハネは牢に繋がれながら悶々としていたような記述があります。ヨハネは、町々で福音を宣べ伝えていたイエス様が、本当に来るべきお方なのかどうかを確かめたいと思っていました。ヨハネは自分の弟子たちをイエス様の元に送ります。そして、イエス様に、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」と尋ねさせました。牢屋にいたヨハネは、イエス様が来るべき方なのかどうか、 何が起こっているのかわからず当惑していたのではないでしょうか?そして、ヨハネはイエス様がそのような人であるならば、どうしてヨハネを牢から出してくれないかと思っていたのではないでしょうか?イエス様は彼らに、「あなた方は行って、自分たちの聞いたりみたりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人がみ、足萎えが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。誰でも、わたしにつまずかない者は幸いです。」と言われました。

            私たち信者は、信仰の歩みの中で苛々することがたくさんあると思います。信者は神様が人生の問題を解決してくれることを期待します。信者は祈ったことが答えられていないことを見ます。ある人は神様が自分のことを見てくれていないのではないかと思います。本当に神様は自分のことを気にかけてくれているのだろうかと。ヨハネのように、私たちは牢屋に閉じ込められているような気持ちになります。見捨てられてしまっているように感じます。イエス様が自分の人生で起きていることから遠くにいるように思ってしまっています。            本当は、イエス様はあなたのことをちゃんと見ていて、あなたがどこにいるかも知っておられます。あなたの祈りも聞いておられます。イエス様と人生を歩むとき、人生におけるその旅路はすべてを可能にしてくれる歩みです。イエス様は私たちとの関係において、私たちをイエス様の元に来るようにと招き入れてくれています。人間関係のように、その関係性が特別であることを知るには、その関係性には深さと幅の広さがなければなりません。特別な関係にあればあるほど、そこに不可解な深みというものがあります。私の人との関係において、ある人との関係と他の人の関係性が同じであることはありません。それは相手の人との関係性の深さによります。相手の世界により深く入り込めば、その人のことをより深く知ることができます。

           イエス様は、この関係に入った人たちに対して、ご自身とみ父を現されることを選ばれました。バプテスマのヨハネは彼の召がどんなに特別なものであるのか、その事実を見失いそうになっていました。ヨハネは、イエス様がこの世に来られること、そして、その目的を人々に伝えるために先に神様から遣わされた人でした。しかしながら、神様のみこころをしていたにもかかわらず、彼は牢に入れられる羽目になってしまいました。イエス様は、ヨハネの弟子たちに、イエス様のことを疑わず、イエス様のしていることに当惑してはいけない、イエス様がこの世になぜ来られたかを思い出すようにと伝えなさいと言ったのです。

           一般の人たちは、イエス様とヨハネの関係を知ることはありませんでした。イエス様は群衆に向かってこう言います。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。 

預言者を見るためですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」

           イエス様に従うことは、私たちが自分の試練や患難を見たときに、苛立ったり、落ち込んだりすることはないことを保証してくれるものではありません。ですから、イエス様が語られたこの言葉はとても励ましになります。 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。人生とは重く疲れるものです。ストレスで一杯で耐えられない時もあります。しかし、イエス様は、わたしがあなたを休ませてあげる、と言っています。イエス様は、私たちの問題を取り除いてあげるとは言っていません。一緒に人生を生きていこうと言っているのです。自分だけで苦しむことはないと。

            あなたが神様のみこころに従って何かをして、思いもよらない場所に来てしまったとしても、イエス様は、心配はいらない、わたしのところに来て休みなさいと言っていくれています。わたしのもとに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげますと。イエス様はそこで私たちの問題を取り除いてくださるわけではありませんが、人生の問題を乗り切るために私たちと共にイエス様は一緒に歩んでくださいます。私は、イエス様の弟子として、人生に向き合う時にイエス様の心を学んでいかなければなりません。くびきは、二頭の動物が互いに別々の方向に行こうとする保証にはなりませんが、くびきは、主人が向かおうとする方向と同じ方向にその二頭を向かせます。 

            同じように、私たちがイエス様のくびきを負うようにと言われたことを受け入れるとき、私たちはへりくだることを学び、イエス様が向かおうとする方向と逆に向かおうと争わないようになります。イエス様のくびきを負うとき、私たちは人生で遭遇するすべての場面でイエス様に安らぎを見出します。イエス様はずっと私たちとともにいてくださいます。ですから、私たちは安心することができます。そして、私たちはその人生の危機に引っ張り込まれることはありません。イエス様のくびきを負うことで、人生は楽になり、可能になり、重荷が軽くなります。繰り返しになりますが、イエス様は私たちの問題を取り除いてはくれませんが、一緒にくびきを負い、私たちの問題を解決するために私たちを引っ張っていって

くださいます。

適用:私は今日、イエス様のもとに行き、イエス様と一緒にくびきを負うことで、人生で挫折したり失望したりしたことで重荷を負う必要がなくなることを学日ました。 イエス様はいつも私の問題を取り除いてくださるわけではなく、私をイエス様のもとに招き、共にこれからの人生に立ち向かおうとしてくださることを思い起されました。たとえ困難な時でも、私はいつもイエス様に力、知恵、教訓を求めていきます。私は日々、イエス様のもとに行き続けます。

祈り:イエス様、あなたのうちに平安と休息を見いだせることを感謝します。 私は人生を共に乗り越えていく力を見出します。 私の人生の厳しい状況の中でも、どうしたら、謙遜になり、親切に優しくなれるか、教えてください。 私は今日、日々あなたに信頼を置きます。私をあなたのもとに招き、人生の中であなたと一緒に協力し、力を合わせていけるよう招いてくださり感謝します。イエス様、あなたの招きに感謝します。 アーメン!