知識よりも愛

「偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。 もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。」(‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭8‬:‭1‬-‭3‬)

偶像への供え物について知っている人たちは、「わたしたちはみな知識を持っている」と言うだろう。確かに知識は大切だ。特に正しい知識は生きる上で欠かせない。ただ、よもやすると私たちは情報収集に終始し、その情報を用いる方法である「知識」について無知だったりする。

知識は情報を正しく用いるための知恵、というところか。知識はあっても、愛を持たず、自分の誇りのためだけに用いているなら虚しい。

知識を誇るなら、それこそ虚しいことである。「もし人が自分は何か知っていると思うなら、その人は知らなければならないほどの事すらまだ知っていない」という現実を目の当たりにして、知識だけを誇ることがいかに虚しいかを思い知る。

神は、私たちがどれだけ知識を持っているかということよりも、どれだけ神を愛しているかということに興味を持っているようだ。神を愛する者となりたい。

愛する天のお父様、あなたの愛を実践する者となることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。