進む道を賢く選ぶ

聖句:”さて、ファラオがこの民を去らせたとき、神は彼らを、近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかった。神はこう考えられた。「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」 それで神はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせた。イスラエルの子らは隊列を組んでエジプトの地から上った。 モーセはヨセフの遺骸を携えていた。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの子らに堅く誓わせていたからである。 彼らはスコテを旅立ち、荒野の端にあるエタムで宿営した。 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。 昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。” 出エジプト記 13章17~22節 聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

観察:            

ファラオがようやくイスラエルの民をエジプトから去らせたとき、神様はその民を導くようモーセを召されました。モーセに民を導くようにと神様が彼にその任を託されてはいましたが、実際に民を導き出したのは神様ご自身でした。神様から召されているリーダーたちは、神様の導きに自分自身をゆだねることができなければなりません。リーダーシップの立場にある人たちはすぐに自分たちの経験やスキルに頼ってしまいがちです。これらのリーダーたちは、神様のリーダーシップの下にあり、神様のリーダーシップに従う心を持っていなければなりません。
            モーセは指導者として召されていましたが、彼もまた、神様の導きに従うことを学ばなければならないということに気づいていました。モーセ自身が、そのように神様ご自身がその民の導いていたと書いています。 神様はご自身の民をどう導いていったら良いかをよくご存知です。

神様は彼らを、それが近道であっても、ペリシテ人の地への道には導かれなかったのです。それは、神様が、「民が戦いを見て心変わりし、エジプトに引き返すといけない。」 と考え、神様は民を、あえて葦の海に向かう荒野の道に回らせました。
           神様がある状況から私たちを救い出してくれる時、すべてのことにおいて、私たちは楽な道を神様が備えてくれると思いがちです。神様は私たちにとって何がベストかをご存知です。神様は私たちがどんな戦いに勝てるかもよくご存知です。私たちの弱みも強みもよくご存知です。また、私たちが人生のどんなステージにあるのか、私たちが行くべきところまで行き着くための方法もご存知です。
            教会のリーダーとして、私が自分の教会で人を導く任にあたるようにと召されていたとしても、究極的に、私自身が神様の御霊に導かれる者でなければなりません。私が導いている人たちは、私に属する人たちではなく、神様の人たちです。私が期待していた通りに神様が民を導いていかなくても、私はそれに対して恐れを抱いてはいけません。
            時には、導いている人たちがやり易いようにと、より簡単で、ショートカットをしたいという思いに駆られてしまいます。しかし、神様は彼らが思いもしないやり方で彼らを導かれようとする時があります。

 ある時には、簡単で一番近い道が極めて危険で命取りになることもあります。近道をしてしまうことで、彼らが将来遭遇する戦いに対して準備できない状態になっていてしまいます。
            神様は紅海に向かって荒野を一直線で彼らを導いていきます。荒野を歩いていくのは大変で、景色が変わらずとても長く感じます。しかし、神様は彼らがそのような経験をすることに目的を持たれていました。それは、イエラエルの民がこれからの旅路で出会うであろう様々な障害や戦いを乗り越えられるようにと、神様が彼らを成長させて

いくためでした。時々、近道に見える道が、最も長い道になってしまうことがあります。誰でも人間は楽で短い道の方が、荒野の道をいくよりもよっぽどいいと思います。たとえ神様の導きが荒野を通る道であっても、私は神様のその導きに信頼することを学ばなければなりません。 ショートカットを神様なしで行くよりも、荒野の道なき道を神様と共にいたいという思いを持つべきであることを私は学んでいます。
            神様は民を荒野へと導かれました。そして、イスラエルの民は、これから待ち構える戦いに向けエジプトを去っていったのです。モーセ

はヨセフの遺骸を携えていました。それはヨセフが、「神は必ずあなたがたを顧みてくださる。そのとき、あなたがたは私の遺骸をここから携え上らなければならない」と言って、イスラエルの民に堅く誓わせていたからです。神様はこの民を、葦の海に向かう荒野の道に回らせます。主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれました。彼らが昼も夜も進んで行くためです。 何よりも私が印象深勝ったのは、「昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。」という一節です。            神様は導き、そして、備えてくださいます。神様が私を導いてくださる時、神様は私をいつも支えてくださっています。 このことは、神様が導かれる時、たとえそこが荒野であったとしても、そこに神様は常にご自身の臨在を約束してくださっていることを私に思い起こさせてくれています。近道は魅力的に見えますが、それに騙されてしまうこともあるということを忘れないでください。荒野は、荒れ果ていて魅力的にはとても思えませんが、神様がそこにいらっしゃるのとそうでないのは大違いだということを覚えておきましょう。 
適用:人を導く立場にある神様のことして、神様こそが究極のリーダーであること、そして、その導かれれる神様に聞くことを常に学んでいかなければならないことの気づきに感謝します。 私は単に人を導いているだけだと考えてはいけません。私も、また、神様の臨在によって導かれなければならないことを常に覚えていなければなりません。神様が導き、神様が備え、そして神様が私をいつも支えてくれることを自分に言い聞かせ続けます。

神様がいないショートカットより、神様と共に荒野の道を目的地に向かって旅する方がよっぽど良いことを覚えます。 
祈り:            イエス様、あなたは私の人生を通してとてもよくしてくださいました。あなたは忠実なお方で、私をいつも支えてくださっています。 あなたが私を導くとき、どうか私があなたのことを信頼することができるよう、私を教え続けてください。荒野にあなたが私を導いたとしてもあなたのことを信頼することができるよう私を助けてください。 あなたの導きに従うことを私に教えてください、そして、人生においてあなたが私を導かれていかれながら、あなたの道を学びことができますように。  近道が最善の道だという思いに騙されないよう私を守ってください。あなたの恐れを私に教えてください。そして、あなたの導きに敏感に反応できる心を私に与えてください。あなたのリーダーシップと導きを見分けることができるよう私を教えてください。アーメン!