イエスにはなんの罪も見いだせなかった

「そこでピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた。 兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、 それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。そして平手でイエスを打ちつづけた。 するとピラトは、また出て行ってユダヤ人たちに言った、「見よ、わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、それはこの人になんの罪も見いだせないことを、あなたがたに知ってもらうためである」。」(‭‭ヨハネによる福音書‬ ‭19‬:‭1‬-‭4‬)

イエスキリストが十字架について死なれた時、ローマ総督による裁判においても、パリサイ人たちなどのユダヤ人たちによる裁判においても、酷い扱いを受けた。

ローマ総督ピラトは、イエスを捕え、むちで打たせた。イエスに直接手をかけたのはローマ兵たちだった。ローマの兵卒たちは、いばらで冠をあんで、イエスの頭にかぶらせ、紫の上着を着せ、 それから、その前に進み出て、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。イエスがユダヤ人の王であることは事実だが、完全にイエスを馬鹿にしている。神への冒涜行為そのものであった。

そしてローマ兵たちは平手でイエスを打ちつづけた。まるで罪人扱いである。人権侵害も甚だしい。

そしてピラトは、また出て行ってユダヤ人たちに言った、「見よ、わたしはこの人をあなたがたの前に引き出すが、それはこの人になんの罪も見いだせないことを、あなたがたに知ってもらうためである。」

ならば何故ユダヤ人たちの言いなりになり、イエスを罪人扱いするのか?ピラトはユダヤ人たちの暴動を恐れていたからである。イエスには何の罪も見いだせなかったのに、最終的な判決を極刑である十字架刑にしてしまったピラト。

イエスの十字架をパリサイ派や律法学者などのユダヤ人たちは喜び、ローマ兵を無頓着であった。しかしイエスを信じた者たちは身代わりの死をとでも悲しんだ。

私たちの救いのためには神はイエスを十字架の死に渡された。私たちの罪の身代わりとなられたとは、私たちの罪がイエスを十字架につけたのである。

イエスを信じ受け入れる者には、自分たちの罪のためになんの罪も見出すことのできなかったイエスが身代わりとなって死んでくださり、死から三日目によみがえり、私たちが神と共に永遠に生きることができるようにしてくださったことを受け入れる必要がある。

私はただ、主が私を愛してくださっていることを感謝したい。

愛する天のお父様、私たちの罪をあがなうことができるのは、罪の無いあなたの御子イエスだけです。あなたが私たちのために愛する御子を捧げてくださり、私たちの信仰により救ってくださったことを感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。