高尚な欲求
「人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。 愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。」(ヤコブの手紙 1:14-16)
人間には欲がある。食欲、性欲、睡眠欲などの生理的欲求に加え、経済的安定、医療へのアクセス、住まいや治安の確保などの安全面におけるもの、家族や愛する人、また何かしらの組織やコミュニティに所属していることなどの社会的なもの、またその中での行動を認めてもらえるという承認欲求、さらには、自分の能力や賜物を発揮したいという向上心や達成感を求める欲求がある。
さて、これらの欲求が利己的なものとなり、焦り、執着すると、聖書が教えるところの状態、「人が誘惑に陥るのは、それぞれ利己的な欲に引かれ、さそわれる」ようになる。この利己的な欲は、それがはらむと罪を生み、熟して死を生み出すというから危険だ。
利己的な欲を満たすことよりも、誰かを幸せにしたい、また誰かを大切にしたいという利他的な欲はさらに優れていると言える。
しかし、最も優れて成熟した欲求は、神の御心を行いたいという欲求ではなかろうか。ヤコブは言った。「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」(ヤコブの手紙 1:17 )
神は私たちにもうすでにあらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物を与えてくださった。私たちは自己実現しなくてよい。神が必要なもの、必要な離れて場所や人々などすべてを与えてくださっている。
私たちは主から与えられた、あらゆる良いものをもって、主の御心を求めながら主に仕えることができる。
愛する天のお父様、あなたの御心を行います。主イエスキリストの御名によって、アーメン。
試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。 ヤコブの手紙 1:12