悲劇的な人生に見えても

「イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。」(マタイによる福音書‬ ‭26‬:‭23‬-‭25‬)

同じ鉢に手をつれてパンをスープに浸すのは、親密な行為である。親しい関係になければ、共に食事をすることも、同じ鉢に手を入れることもしない。日本でいう「同じ釜の飯を食う」ことだ。

そんな信頼関係を破るかのように、ユダはイエスを裏切ろうとしていていた。事実ユダはイエスを銀貨三十枚で売り、イエスの命を滅ぼす手助けをした。イエスは言われた。「自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。」

イエスは私たちの贖いの代価として十字架の上で死なれた。それは父なる神の御心であったが、イエスを裏切り、また殺すことは肯定されない。罪だからである。

イエスはユダのことを、「その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」と言い、ユダは「銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。」‭‭(‭27‬:‭5‬) 何という悲劇か!

そんなユダは死んでどうなったのか?そこは神の領域であり、私たちには憶測しかできない。救いは神のわざである。最後の最後まで人の人生はわからない。イエスを知っていたユダはイエスを裏切り、自死の道を選んだことは罪であっても、息を引き取る瞬間まで、私たちにはその人がどうなったのかわからない。最後の一瞬に悔い改めがあったら救われているかもしれない。だから私たちは軽々しく結論づけることはできない。

むしろ、主を信じ、主を信頼する人生を送りたい。

愛する天のお父様、あなたを信じ、信頼して歩むことができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。