喜んで与える人となる

聖句:

6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。(コリント人への手紙II 6:6−8)

観察:

           この箇所でパウロは、コリントの信者たちに向け、寛容な人になるようにと励ましを与え知ます。私たちは皆、ある程度のところまで、特に自分たち自信に対しては、寛容です。 しかし、寛容さは内向きなものではありません。外に向かってこそ、寛容さが認められるものです。自分に寛容だったり、自分を愛することはそんなに難しいことではありません。私たちは自分たちのことでは自分のことをとても気にします。自分のことが嫌いだと言っている人も、なんだかんだと言いながら、やっていること全ては自分のためにしています。

       パウロは、自分はこう考えると言っています; 

少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り

豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

心で決めたとおりにしなさい。

いやいやながらでなく、

強いられてでもなく、

神は喜んで与える人を愛してくださいます。

このことは私にとって大事なことです。なぜなら、パウロは、神様は私が誰かに何かを与える時の心構えを問題にすると言っているからです。それは、いやいやするのではない。喜んで与えることだと。神様は私に対しても寛大な神様であり、私はその神様を知り、その神様を信頼しなければならないのです。ですから、私は喜びを持って与える人となるべきなのです。ケチではなく、また、 せこい人間になるべきではないのです。従って、私は、必要としている人たちには寛容であり、物惜しみをしない人でなければなりません。

パウロは、なぜ私が寛容を実践する人間にならなければならないか、その理由と、寛容になることで神様がどんな約束をされているか、その確証を与えてくれています。神様が寛容さを是認しているからこそ、私はそんな神様を喜ばせなければならないのです。神様は喜んで与える人を愛してくださいます。ですから、私は、自分が寛容であるべく、自分自身を律して行かなければなりません。それは、時間だったり、金銭的なものだったり。人が必要としている時に、何かの役に立つようになることです。 

神様は、単に喜んで与える人を愛されるばかりではありません。そのことで、神様は私に豊な祝福を与えてくれます。それは、私が寛容さを発揮する時、全てにおいて、あらゆる場面で、必要な全てなものに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者になるためなのです。

適用:

           これを実践することを私の日課とする必要があると感じます。まずは、小さいことから初め、与えることを続けるよう自分自身を律し続けていこうと思います。自分の時間や、持っているもの、そして、他の人たちに役に立つものなど、寛容な人になりたと思います。寛容をライフとしていきます。神様は喜んで与える人を愛され、そうすることで、私の必要の全てを豊に備えてくださるのです。 

祈り:

           イエス様、あなたは寛容な主であり救い主であられます。あなたは、あなたの命を私のために寛大に捧げられた時、あなたは、ケチでも物惜しみをされる様なお方でもありませんでした。私は、あなたのあふれんばかりの命を求め、あなたに目を向けます。そして、寛容のうちに生きることを求めていきたいと思います。どうか、日々、私が寛容な人間となれるよう、私を教え、助けてください。アーメン!