神のことばを知り悟る

「わたしは彼の前にわたしの訴えをならべ、 口をきわめて論議するであろう。 わたしは、わたしに答えられるみ言葉を知り、 わたしに言われる所を悟ろう。 彼は大いなる力をもって、 わたしと争われるであろうか、 いな、かえってわたしを顧みられるであろう。 かしこでは正しい人は彼と言い争うことができる。 そうすれば、わたしはわたしをさばく者から 永久に救われるであろう。」(ヨブ記‬ ‭23‬:‭4‬-‭7‬)

ヨブは神の前に自分の訴えをならべ、 口をきわめて論議すると言った。彼自身が通らされている苦しみや辛さを考えたら、私たちが訴えたり、色々と議論したくなる気持ちがあるのも当然である。

それにしてもヨブの態度は見上げたものである。ヨブか神が答えられるみ言葉を知り、 ヨブに言われる所を悟ると言い、ヨブは決して神に反発しようとしていない。神に訴え、議論しても、最終的に神のみことばを知り、悟ると言っている。

神は大いなる力をもってヨブと争われるではなく、かえってヨブを顧みられると言った。

神の前では正しい人は神と言い争うことができると言っているが、ヨブは自分自身を正しい人として見ているのだろうか?ヨブは身の潔白を証明するために、神に訴え、神と議論し、言い争う覚悟でいることがよくわかる。ヨブは自分自身の正しさに自信があったので、ヨブは自らをさばく方から永久に救われると述べた。

自分自身の正しさ、身の潔白を証明する根拠はどこにあるのか?

私たちにおいては神の言葉にある約束ではなかろうか?自分自身の罪深さを認め、信仰による義によって神の御前に罪が赦されたことを確信し、さばきの主の前に立つことである。

主のことばにある主の愛と約束を主に感謝したい。

愛する天のお父様、あなたの憐れみにより私たちの罪は赦されました。ありがとうございます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。