イエス様に伝えよう

聖句:

“さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。 イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。 その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。 イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。” マルコの福音書 10章46~52節

観察:

             道端に座って物乞いをしていた盲人バルティマイの物語は、人生がいかに残酷で困難なものであるかを教えてくれています。 誰にでも、いたわりと愛を必要とする時があります。 バルティマイは目が見えませんでしたが、ありがたいことに彼の耳はよく聞こえていました。 彼はイエス様が近くを通りかかると聞き、叫び始めます。  時々、私たちは、前に進むことや、また、人からの助けを求めることさえも妨げてしまう自分の限界から、自分の置かれた状況が絶望的だと思ってしまうことがあります。

            バルティマイの身体的能力は、目以外は健常者と同じように問題ありませんでした。  しかし、人は一つの身体的障害に目が行き、残りの健康な99%で自分が必要なところに行けることに気づけないでいます。 バルティマイは、イエス様が通り過ぎるのを聞き、叫び始めます。 私は人生で、人生のうちの1%しかない困難が、人生は絶望的だとか、夢はかなわないと自分を思わせてしまってはいけないことを学びました。

            多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたものの、彼はさらに大きな声で叫びつづけました。 困難やチャレンジがあるからといって、私たちはだんまりを決め込むべきではありません。もっと叫び声をあげるべきなのです。私たちにとって最もチャレンジングなことは私たちの目標にそれがあるのではありません。私たちを落ち込ませようとする人たちが私たちのチャレンジとなるのです。人は必ずしもあなたの最善を思ってくれているわけではないのです。

           イエス様はバルティマイの叫び声を聞き、立ち止まりました。 イエス様にとって、必要は小さすぎる必要も大きすぎる必要も存在しません。 しかし、私たちはイエス様に手を差し伸べ、他の人によって、私がイエス様に向かって叫び声をあげることをやめさせるようなことがあってはならないのです。 イエス様は、私たちが必要としているとき、すべてを止めて私たちにフォーカスしてくださいます。 しかし、私たちは自らの必要をイエス様に具体的に示す必要があるのです。 あなたは何をしてくれるのですか?と人から尋ねられることがあります。私が経験している問題をどう解決してくれるのですか? しかし、彼らは自分が何を必要としているのかを私に教えてくれていません。 人は、私が彼らを助ける方法を知っているはずだと勝手に思い込んでいるのです。

             人はいろいろな問題・課題を経験している中で、彼らの必要としているものを具体的に説明しなければなりません。 イエス様は、バルティマイが何を必要としているのか勝手に思い込んでいたわけではありません。 もちろん、明らかに必要なものがわかるときもあります。バルティマイは目が見えませんでした。 しかし、彼が助けを必要としていたのはそのことだったのでしょうか? イエス様はバルティマイに尋ねます。 バルティマイは、私が盲目であることは一目瞭然ではないか、と言うこともできたはずです。

            見かけの症状が必ずしも本当の問題ではないこともあります。解決しなければならないような、症状以外の問題や課題があることも多々あります。 しかし、具体的であれば、必要な助けを受けることができます。 バルティマイは、「先生、目が見えるようにしてください。」と言いました。 そこでイエス様は、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」と言われました。すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエス様について行きました。

適用:

              私は今日、具体的に助けを求め祈らないければならないことを学びました。 私が経験していることを周りの人がわかっていると決して思ってはなりません。 イエス様への具体的な祈りや願いは、具体的な答えを受け取ることができます。 バルティマイは、肉体的な必要であれ、精神的な必要であれ、私が必要としているものを人はわかっていると思い込んではいけないことを教えてくれています。 私が具体的な必要の助けを得るために、自分自身が具体的でなければならないのです。 私の人生のうち、機能していない1パーセントの部分が、機能している残りの人生のために黙殺してしまうことは許されません。 私はバルティマイから、彼が盲目であったとしても、耳や他の体の部分はまだ機能していたことを学んびました。 目が見えなかったからという言い訳はできないということ。 私たちが絶望的だったのは、助けがなかったからではなく、問題であるその1%にだけに目が行き、大局を見失ってしまっているところにあるのです。

祈り:

               イエス様、あなたが私の人生におけるすべての盲目に対する答えであることを見ることができるよう、私の目を開いてくださり感謝します。 今日、私の祈りを具体的にし、私のおかれている状況によって自分を暗闇に閉じ込めさせるようなことがないようにと教えてくださり感謝します。 人生の多くのことが私の目をくらますとき、あなたの声をはっきりと聞くことができるように助けてください。 主よ、私はあなたを愛しています。あなたが日々私と共にいてくださることに感謝します。 アーメン!