神の国

「そこで、日を定めて、大ぜいの人が、パウロの宿につめかけてきたので、朝から晩まで、パウロは語り続け、神の国のことをあかしし、またモーセの律法や預言者の書を引いて、イエスについて彼らの説得につとめた。 ある者はパウロの言うことを受けいれ、ある者は信じようともしなかった。」(使徒行伝‬ ‭28‬:‭23‬-‭24‬)

神の国がどのようなところであるかについてパウロはユダヤ人たち、また異邦人たちにモーセの律法や預言者の書を引き、イエスについて語った。

今日私たちがモーセの律法や預言者の書、あるいはイエスの言葉やイエスについて語ったパウロの言葉を見つけたい場合、また学びたい場合は、聖書を開く必要がある。聖書は神の国について記しているからだ。

神の国についてイエスはこのように言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20~21)「死んだらあの世へ逝ける」という意味ではない。

神の国、あるいは天の国は礼拝堂や教会、修道院などの特別な場所、特別な空間に存在するのではなく、イエスが「あなたがたの間にある」と言われたように人間関係において生じるまた実現する世界のようだ。「あなたがたの間」は、「あなた方の内に」「内側に」と訳せる言葉であり、口語訳聖書には「あなたがたのただ中に」とある。

また神の国は「神の支配」を表す言葉であるが、神がわたしたちに君臨して服従を求める世界という意味ではない。むしろ、私たちの間に神はいてくださり、私たちの内側に、私ただ中にいてくださる。私たちの内側から「わたし」を肯定し、支えてくれるのだ。

イエスの教えはまさに、私たちが神と出会い、人々の関わりの中で実現してゆくものとして教えてくださっている。神の国が目に見える形ではなく、私たちの只中にあることをイエスは私たちに教えてくださった。

今日も私の人生において神の国があり、神と共に歩むことができることを感謝して歩みたい。

愛する天のお父様、あなたが私たちと共にいてくださることを心から感謝します。あなたに信頼して歩みます。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。