異端か正統派か
「ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、 また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。 わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めています。」(使徒行伝 24:14-16)
キリスト教会が始まった時、クリスチャンたちはナザレ派と呼ばれ、異端扱いされていた。
パウロが総督ペリクスの前でユダヤ人たちに訴えられた時、パウロは弁明した。「お調べになればわかるはずですが、わたしが礼拝をしにエルサレムに上ってから、まだ十二日そこそこにしかなりません。 そして、宮の内でも、会堂内でも、あるいは市内でも、わたしがだれかと争論したり、群衆を煽動したりするのを見たものはありませんし、 今わたしを訴え出ていることについて、閣下の前に、その証拠をあげうるものはありません。」(使徒行伝 24:11-13)
そしてパウロは続けて言った。「ただ、わたしはこの事は認めます。わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、 また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです。 わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心を責められることのないように、常に努めています。」(使徒行伝 24:14-16)
パウロは訴えられているような罪を犯した訳でもなく、宗教的なことで訴えられているのだと言った。
「さてわたしは、幾年ぶりかに帰ってきて、同胞に施しをし、また、供え物をしていました。 そのとき、彼らはわたしが宮できよめを行っているのを見ただけであって、群衆もいず、騒動もなかったのです。 ところが、アジヤからきた数人のユダヤ人が――彼らが、わたしに対して、何かとがめ立てをすることがあったなら、よろしく閣下の前にきて、訴えるべきでした。 あるいは、何かわたしに不正なことがあったなら、わたしが議会の前に立っていた時、彼らみずから、それを指摘すべきでした。 ただ、わたしは、彼らの中に立って、『わたしは、死人のよみがえりのことで、きょう、あなたがたの前でさばきを受けているのだ』と叫んだだけのことです」。」(使徒行伝 24:17-21)
死人のよみがえりとはイエスキリストの復活のことである。議会の中で議員の一部がサドカイ人であり、一部はパリサイ人であったため、彼らの間に争論が生じ、会衆は相分れた。千卒長はパウロが彼らに引き裂かれるのを気づかってパウロの身を確保した。(使徒行伝 23:6-7, 10, 23-24)
イエスがキリストであるという教えをユダヤ人たちは異端と見るが、クリスチャンたちは正統な教えと捉える。聖書の教えは真理であるとする私たちからすると、その教えに合致していないものは異端となる。
私たちはやがてよみがえる希望を抱いているだろうか?私たちはイエスにあって死んでも生きることができる。大切なのは、そこではないか!
愛する天のお父様、あなたが私たちを救ってくださったことを感謝します。私たちには死んでも生きる希望があります。主イエスキリストの御名によって、アーメン。