クリスチャンとして生きる
「ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたは律法を守って、正しい生活をしていることが、みんなにわかるであろう。 異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにとの決議が、わたしたちから知らせてある」。」(使徒行伝 21:23-25)
エルサレムの教会の中に誓願を立てている者が四人いた。これは「ナジル人の誓願」と呼ばれ、特別な願いごとがあったり、ある期間特に神に近く歩みたいと願ったりした場合に立てたものである。
これは、神への献身を約束するもので、その誓願の間、ぶどう酒や生のぶどう、干しぶどうなど、ぶどうの木から生じたものを飲食しなかったり、サムソンのように生涯、髪の毛をそることも切ることも禁じた場合と、この4者のようにある一定期間を誓願の期間とし、それが終わると、定められた献げ物を献げる(民数記6章)ために、パウロは教会に対して彼らと共にきよめを行い、また彼らの頭をそる費用を引き受けてやるように勧めたのである。
これは律法を尊重してのことであり、エルサレムの教会が根も葉もないことでうわさされて誤解を招かないようにし、ユダヤ人たちに教会の人たちが律法を守って、正しい生活をしていることをわかってもらうためであったが、キリストに従う者となった私たちはもはや律法の下におらず、は明確にしていた。パウロはこう述べている
「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。」(ガラテヤ人への手紙 3:8,10,11,13)
パウロは信仰によって生きる者たちは律法から解放されていることを伝えるために、「異邦人で信者になった人たちには、すでに手紙で、偶像に供えたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを、慎むようにと決議した」と述べた。
クリスチャンとして生きることは、罪を犯すのでなければ何をしても良いが、実際何をどうすべきかは良く考えて行うべきである。偶像に供えても清めて食べるなら全く問題ないが、誰かを躓かせることなるなら控えるべきだ。また血と絞め殺したものを食べることも基本問題ないが、食べたいかどうかもあり、衛生的な懸念などクリアできるとよい。不品行は私たちが簡単に陥りやすい罪だが、徹底して目と思考と心を守らなければならない。
クリスチャンとして生きることは証であり、また戦いである。聖霊の助けを得て歩んでいきたい。
愛する天のお父様、あなたは私たちの主です。あなた御子イエスは私たちの救い主です。感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。