いのちの木
「川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。」(エゼキエル書 47:12)
神殿は神の住まわれる場所であり、聖所とも呼ばれた。聖所、つまり神がおられる場所から流れる川は豊かな流れを持つ。
エルサレムという街は標高800mの丘陵地帯にある都市で、雨季(冬)と乾季(夏)があるが、年間降水量は600㎜程度の乾燥地帯。エルサレムの中にはダビデの町がある。そこと向かい側のオリーブ山の間にはギドロンの谷があり、ダビデの町の崖下には、ギホンの泉がある。
ギボンの泉は、古代「ウォーレン・シャフト(竪坑)」が作られ、エルサレムの住民はギホンの泉の水を汲んだ。次にシロアムの水路が地表に作られ、ダビデの町の東側斜面の底部に沿って引かれ、近隣のキデロンの谷の農業地帯に水を供給した。この水路はシロアムの池に流れ込んでいたが、アッシリア軍から守るために、約2700 年前、エゼキエルが登場する少し前に、ユダのヒゼキヤ王によって城内のシロアムの池まで全長533mに及ぶ、勾配0.4%のトンネル(水道)が掘られたのである。
さて、エゼキエルの幻であるが、「その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。 」(エゼキエル書 47:3-5)とある。
泳げるほどの豊かな流れは神の溢れるばかりの祝福を意味する。神の祝福を象徴的に表している。そして「川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つという。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる。」(エゼキエル書 47:12)
これは黙示録22章にも出てくる幻と合致する。「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。」(ヨハネの黙示録 22:1-2 )いのちの木の実は食用に供せられ、その葉は薬となり、人々をいやすのである。
「全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所」(ヨハネの黙示録 21:22)であり、そこから流れ出る川はいのちの木に毎月実らせ、人々を養い、また人々を癒す。
主の養いと癒しを受けよう。
愛する天のお父様、あなたは私たちを養い、癒してくださいます。あなたを信頼します。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。