イエス様は愛する者をみな、叱り、懲らしめる

聖句: 

“また、ラオディキアにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる──。 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。 そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせる。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』」” ヨハネの黙示録 3章14~22節

観察:

           ヨハネはこう書いています。『アーメンである方、確かで真実な証人、神による創造の源である方がこう言われる。」
ご自身をアーメンと、そして、確かで真実な証人、神による創造の源と呼ぶイエス様に関する素晴らしい記述です。ラオディキアの教会は問題を抱えていました。イエス様は、ラオディキアの教会の問題がなんであるのか、ヨハネに示しています。

            イエス様は、「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。」と言っています。生ぬるいと。生ぬるいというのは、どちらちかずという意味です。信者としての生き方に一貫性がないということです。イエス様が彼らを見る見方と彼らが自分たちを見る見方とが違っていたのです。


ラオディキアの信者たちは自分たちは、富んでいて、豊かになった、足りないものは何もないと思っていました。しかし、イエス様は、彼らを実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていないと見ていました。


            私たちは自分たちを違う尺度で測っている時があります。これが生ぬるい信者の絵姿です。二つの世界に生きようとしている人たちです。イエス様と歩みながら、一方でこの世を愛していたのです。私たちが富んで豊かだとしていることは、実はイエス様の前ではなんの価値のないことです。イエス様はこう続けます。「豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。 」と。

            私が自分自身をイエス様の視点から見れなければ、自分が本当に何者なのかは決して分かりません。イエス様が私を愛しているからこそ、イエス様は時々私のことを叱り懲らしめるのです。イエス様が私を愛していると知っていることが、私が罪の中にい続けられることの許しを与えることではありません。イエス様はこう言っています。 「 わたしは愛する者をみな、叱ったり懲らしめたりする。」愛に関する最も偉大な行為 はただそこに座し黙って罪を見過ごすことではありません。愛は、人を叱り、厳しくすることでもあるのです。

            イエス様はまた、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」と言っています。叱られ、厳しく躾けられ人たちをイエス様は待っておられます。イエス様はその人の成長のため矯正しようとされています。イエス様から叱られ、懲らしめを受ける方法は、真摯に悔い改めることから始まります。真摯さは、自分の罪を強く認識し、誠実さを示すことに他なりません。

            真摯に悔い改めるとは、イエス様に対して扉を開け、イエス様と共に座し、矯正と懲らしめを厭わないことです。 イエス様は私のことを、自分が自分を知っているよりも、知っておられるのです。ラオディキアの人たちは、人生においてあらゆるものを持っていると思っていました。ですから、彼らは自分たちが変わる必要性を感じていなかったのです。自分たちが富んでいて、豊かさを手にいれ、他に何も必要としていなかったのです。しかし、イエス様は、彼らのことを哀れで貧しくて、盲目で、裸であると見ていたのです。

            私もこの生ぬるい心に注意を払っていなければならないことはわかっています。自分のことを自分の見たいように見ようとするのか、それともイエス様が私を見る見方で自分を見ようと思うのか、どちらかを選ばなければなりません。誠実に悔い改めること、もしくは、プライドのうちに歩みイエス様が私の人生の中にある罪を指摘することを拒む生き方をするのか、どちらかを選ぶのです。イエス様は、自分の声を聞き、扉を開ける者は、勝利を得る者であると言われています。彼らをわたしとともにわたしの座に着かせると言っています。

適用:

私はラオディキアの信者同様の罪を犯しています。私の心は時にあまり熱くありません。イエス様に対して私は熱くありたいです。そして、神様のことに関して、自分の生ぬるさを真摯に悔い改めていきたいと思います。私の人生において、イエス様の叱責と厳しい躾を求めていきます。イエス様の叱責と懲らしめが私にある時、それは私に対するイエス様の愛から出ているものであることを私は知っています。日々、私にはこの気づきはとても必要なことです。 

祈り:

            イエス様、あなたにある命に私の目を開け続けていてください。私の心の生ぬるさを取り除いてください。 あなたの聖霊が私に罪の意識や生ぬるさを強く迫りくる時、どうか私が真摯に悔い改められるよう、私を教えてください。 私が、優柔不断さを克服することができるよう、助けてください。日々、あなたが必要であることに目を向けることができるよう私を助けてください。アーメン!