神のみわざが現れる
「弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネによる福音書 9:2-3)
私たちの上に神のみわざが現れることこそ、私たちの人生に起こりうる最も素晴らしいことの一つである。
生まれつき視覚障害やその他の身体的・精神的障害、あらゆる困難を抱えていることに対して、私たちは本人や親が原因となっていることがあってもなくても、私たちが目を向けるべきところは原因特定ではなく、神の憐れみ、神の贖い、問題解決である。それは神は私たちの過去や問題を知って、将来と希望を見てくださっているからである。
「イエスは…地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。」(9:6-7)
「そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。」(9:16)
「そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った。」(9:17)
体や心の癒やしなど、神は私たちの内に偉大なことをなさる。律法を表面的に捉えてしまうと、私たちは神の働きを罪の働きを決めつけてしまいかねない。神の働き、神のみわざを拒むのではなく、認める人になりたい。
愛する天のお父様、あなたがみわざを行い、神の働きを認める者となることがで来ますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。