雪がれた心

「さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」(‭‭ヘブル人への手紙‬ ‭10‬:‭21‬-‭22‬)

雪ぐ(すすぐ)とは、汚れを水で洗い落すことである。雪(ゆき)という文字の動詞が雪ぐ(すすぐ)とは、雪には汚れを洗い落とす作用があるということか?

私は冬に雪が降り積もって静まり返り、シーンとした日中の風景が好きだ。人々も動物も住処に留まり、陽の光が見渡す限りの雪原に反射して眩しい。心が洗われる気がする。

人間関係においても降雪の翌日には何となく原点に帰った気持ちになる。だから雪ぐという言葉に雪という文字が当てはめられるのもわかる気がする。

イエスキリストは、私たちの心を雪ぎ、私たちの良心の咎めを取り去ってくださった。私たちが洗礼を授かった時、私たちの身体は清い水で洗われた。その時に使用したH₂Oの純度の話ではない。

心雪がれた私たちは、今や真心をもって、信仰の確信に満たされて主の御前に近づくことができる。今日も主のところに行こうではないか!

愛する天のお父様、あなたが私の心を雪のように白くしてくださりありがとうございます。あなたに真心から、確信に満たされて歩むことができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。