主を恐れることを楽しむ
「彼は主を恐れることを楽しみとし、 その目の見るところによって、さばきをなさず、 その耳の聞くところによって、定めをなさず、 正義をもって貧しい者をさばき、 公平をもって国のうちの 柔和な者のために定めをなし、 その口のむちをもって国を撃ち、 そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。」(イザヤ書 11:3-4)
これはイエスキリストのことを言っている。
イエスは主であるが、この箇所でイエスが主を恐れるというのは、三位一体の神であることを鑑みて可能である。子なる神が父なる神を恐れる(畏れる)様子ではなかろうか。
子なる神として、父なる神を敬い、慕うことは楽しみとあるから素晴らしい。イエスは父なる神に嫌々従ってはいなあ。
神が私たちをさばく、或いは評価するのは、その目の見るところ、その耳の聞くところによってではない。神は見た目ではなく、心を見ておられる。
また神は正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなしてくださる。私たちはそこまでして、この世の価値観にとらわれる必要はなく、たとえ貧しくても主は備え、柔和であることを馬鹿にされても恐れたり、引け目を感じる必要はない。
神のさばきは、その口のむちをもって国を撃ち、 そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す力がある。神は憐れみ深く、忍耐強い方であるから、すべての違反者を滅ぼさずに、ヨナの時代のニネベのように、良しとされた罪人たちを主権をもって赦し、憐れみを与えられる。
私たちの主はさばく権威があり、滅ぼす力を持ちながら、人々の罪を赦し、救う力を持っている。
今日も私の救い主であるイエスを恐れ、楽しみたい。
愛する天のお父様、あなたを恐れて生き、その生き方を楽しみます。あなたは私たちの心を見ておられますから、心から喜んであなたに仕えることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。