尊敬すべき人たち
「くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである。 信者である主人を持っている者たちは、その主人が兄弟であるというので軽視してはならない。むしろ、ますます励んで仕えるべきである。その益を受ける主人は、信者であり愛されている人だからである。あなたは、これらの事を教えかつ勧めなさい。」(テモテヘの第一の手紙 6:1-2)
「奴隷と主人」との関係は究極的な主従関係だ。奴隷の人権は考慮されることが少ない。今日多くの国では奴隷制度が廃止されているが、武装集団による子どもの連れ去り、人身売買、養子縁組のニュースに心を痛めるばかりだ。
たとえ社会的に奴隷にならなくても、私たちは心理的あるいは経済的に奴隷になってしまうことがある。自主的あるいは義務的であるにせよ私たちが誰かの下に置かれた時に上の立場に置かれた者を真に尊敬すべき者として仕えることができるだろうか。
尊敬すべき人たちとは、人格の良い方々というイメージがあるかもしれないが、パウロが指し示す尊敬すべき者たちとは必ずしも人格者というわけではなく、自分の上司、親、先生など権威ある者たちである。
私たちの上司が信者で神に愛されている人で、願わくば尊敬したくなる人であって欲しいが、そうではない場合にも神の御名と教えとがそしりを受けないために真に尊敬すべき者として仕えられたらと思う。そのためには信仰と神の助けが必要だ。
神を信じない人が上司の場合にも、私たちは神が立てられた上司であることを覚えて尊敬し、主が祝福することには喜んで従い、主が喜ばないことは自分の信念に基づいて行動したい。
愛する天のお父様、あなたが私たちに上に立ててくださった人を敬い、神の愛をもって接することができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。