主にあって歩む

「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。 また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」

‭‭(コロサイ人への手紙‬ ‭2‬:‭6‬-‭7)

主キリスト・イエスを受け入れたら、それで終わりではない。永遠の生命を得て一安心だが、その後にはクリスチャンとしての歩みがある。「イエスキリストにあって歩く」ことは私たちの選択肢にあることだ。

クリスチャンになってもイエスキリストにあって歩むことも歩まないこともできる。

イエスキリストを受け入れるとは天国の切符を手に入れ、後は自分自身が生きたいように生きることとは違う。イエスキリストが自ら支払われた犠牲の意味や目的がわかれば私たちの生き方は変わる。

救いは無償だが、それ以降は有償なのである。他人を愛するのも赦すのも有償である。神に従うために自分の肉に死ぬことも楽ではない。礼拝をささげたり、献金をささげることは更に犠牲が伴う。

これらの犠牲を負担と捉えるのか、私たちの喜びと捉えるのかは私たち次第である。神に対する犠牲など、神が私たちのために支払われた犠牲(御子イエスキリストの十字架のあがない)に比べると微々たるものではないか。

主イエスキリストにあって歩むことは決して薔薇色人生ではない。しかしイエスキリストを心に受け入れた者にとっては消えることのない喜びである。

愛する天のお父様、あなたの御子イエスキリストの十字架のあがないを感謝します。私の罪の代価を支払ってくださり、私は信仰によって永遠のいのちを得ました。ですからあなたに従い、あなたにあって歩みます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。