不真実にもかかわらず

「彼はその父が先に行ったもろもろの罪をおこない、その心は父ダビデの心のようにその神、主に対して全く真実ではなかった。 それにもかかわらず、その神、主はダビデのために、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、その子を彼のあとに立てて、エルサレムを固められた。 それはダビデがヘテびとウリヤの事のほか、一生の間、主の目にかなう事を行い、主が命じられたすべての事に、そむかなかったからである。」(列王紀上‬ ‭15‬:‭3‬-‭5‬)

彼とは、アビヤムでダビデの曾孫である。アビヤムはその父が先に行ったもろもろの罪をおこない、その心は父ダビデの心のようにその神、主に対して全く真実ではなかった。

それにもかかわらず、その神、主はダビデのために、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、その子を彼のあとに立てて、エルサレムを固められた。 それはダビデがヘテびとウリヤの事のほか、一生の間、主の目にかなう事を行い、主が命じられたすべての事に、そむかなかったからだという。

主はもろもろの罪をおこない、その心は父ダビデの心のようにその神、主に対して全く真実ではなかったアビヤムを、エルサレムを固めるために用いられたが、アビヤムが主に祝福されたとは書かれていない。

私たちの主は公義なるお方であり、また憐れみ深いお方である。私たちは原則を見つけ出して、こうすれば神の憐れみを得られ、ああすれば罰せられるなど考えようとするかもしれない。しかし、神が罪深い者を憐れむのも、また死に定めるのも主権者なる神が定められることである。

今日、私たちは人種や国民に関係なく誰でも自分の罪を悔い改め、イエスキリストを信じて心に受け入れるなら救われ、永遠の命を得ることができる。私たちが良い人間だと思う人には天国に行って欲しいし、酷いことをした奴など絶対に天国に行って欲しくないと考えるだろう。これもまた主権ある主が決められることだ。

私たちは表面的な部分だけを見て、様々なことを決めつけがちだが、主の御心を求めて歩んでいきたい。

愛する天のお父様、私たちが自分の家族や帰属するグループのおかげで、あなたの恵みを頂くことがありますが、あなたが直接報いてくださる生き方をすることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。