神を待ち望め
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように神よ 私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは神を生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか。昼も夜も私の涙が私の食べ物でした。「おまえの神はどこにいるのか」と人が絶えず私に言う間。私は自分のうちで思い起こし、私のたましいを注ぎ出しています。私が祭りを祝う群衆とともに喜びと感謝の声をあげてあの群れと一緒に神の家へとゆっくり歩んで行ったことなどを。わがたましいよ なぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」(詩篇 42:1-5)
作者のダビデは、たましいが飢え乾いていた。項垂れ、思い乱れていた。絶望の淵にいたのかもしれない。かつて祭りを祝う群衆と共に歓喜の声を上げ、感謝をしていた頃は、きっと遥か遠い昔のように感じたのであろう。
そのような不毛に感じる状況で、ダビデは自らの心を神に注ぎ出し、この詩を書いた。潤いを求めているダビデのたましいは、まるで鹿が谷川の流れを慕うようなものだった。ダビデは涙をもって朝昼晩を過ごしていた。まるで泣くことで自分の心の渇きを潤そうとしていたかのように。
ダビデの心底からの願いは、神の御前に出ることであった。自分で自分にブレーキをかけていたのか、思考停止状態になり、主の前に行くことが憚れたのかも知れないが、神の前に出ることが最終目的だとどこかでわかっていて自分の気持ちを吐露できたのであろう。
本当に心が死んでしまうと、そのような願いも出てこない。もし心が疲れ始めたら直ぐに休もう。そして神を待ち望みたい。私たちに元気が戻るのは、神をほめたたえる時だ。
愛する天のお父様、私たちの心が飢え乾くとき、あなたは私たちの心を満たしてくださいます。主よ、感謝します。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。