私たちの人生の残された日々
聖句:
“主よお知らせください。私の終わり私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないかを知ることができるように。
ご覧ください。あなたは私の日数を手幅ほどにされました。あなたの御前では私の一生はないも同然です。人はみなしっかり立ってはいても実に空しいかぎりです。セラ
まことに人は幻のように歩き回りまことに空しく立ち騒ぎます。人は蓄えるがだれのものになるのか知りません。
主よ今私は何を待ち望みましょう。私の望みそれはあなたです。”
詩篇 39篇4~7節
観察:
このダビデ王の祈りは、人生61年を迎えた今日の私にふさわしい言葉です。 ダビデは、自分の人生の終わりと残りの人生の日数を示してくれるよう、主に求めています。 人は時に、終わりがないかのように人生を生きています。 ある人は、この世での自分たちの計画や目標で頭がいっぱいで、人生がいかに儚いものであるかを考えずに生きています。
私のはかない人生があと何日残されているかを知っているのは、神様だけです。 ダビデが言ったように、主は自分の日々は手幅ほどしかなく、神様の前では無に等しいのです。 ダビデは再び、私たちの日々がいかにはかないものであるかというところに目を留めて、こう言いました。「あなたは私の日数を手幅ほどにされました。あなたの御前では私の一生はないも同然です。」
ダビデ王が自分の人生を評価したように、永遠を心に刻んで生きている人がどれだけいるでしょうか。 私は61歳を迎え、20代、30代、40代、50代の頃と比べ、人生の捉え方が変わってきました。 つい最近、同世代のいとこを何人か亡くしました。 また、幼なじみで同級生だった人もたくさん亡くなりました。 永遠が一息で終わってしまうなんて、ショックです。
ダビデ王は、誰もが単なる幻のような存在で、虚しさの中で駆け巡り、最終的に誰のものになるのかもわからない富を築こうとしている、と指摘しています。幻とは、人生においてなんの役にも立たない目的を追い求める幽霊のような存在です。現世で豊かになることだけを思い巡らし、神様に対して、貧しい人々のことです。 人は自分の主人のために金を稼ぎ、主人の願いを叶えるために駆り立てられ、その結果、何年も汗水流して手に入れたすべてを享受するために生るかのように生きているのです。
ダビデ王は、「まことに人は幻のように歩き回りまことに空しく立ち騒ぎます。人は蓄えるがだれのものになるのか知りません。」と表現しました。 私たちは皆、いつかこの世を去り、何年も汗を流して築き上げたものをこの世に置いていくのです。
私は、ダビデ王が、長生きして享受できない富を築くことに躍起になる幻の人生がいかにむなしいかを悟ったときに書いた言葉が大好きです。主よ、私はどうすればよいのでしょうか。 私の希望はあなたにあります。 私たちが時間をかけて追い求める富は、来世に持って行くことはありません。 今日をどう生きるか、その視点が大切です。人生は一息に過ぎず、儚いものです。
適用:
富は常に、この地球上で私たちを悩すものです。 私も、常に、誰がもっと富を持っているのだろうかと考えてしまいます。 しかし、富を持つこと自体悪いことではありませんが、最終的には、神様を現世と来世における私の唯一の希望とすることが、富よりもはるかに優れたことであることをこの誕生日に私に気づかせてくれました。私は、私の唯一の希望であり、私が追い求めるべきものであり、私の日々の必要を満たしてくださる神様を、生きるための存在にしていきます。 私はまだ、どうしたら神様を人生の第一に追い求める対象とできるのかを日々学んでいます。 神様との関係は、裕福になることを追求するよりも優先されるものでなければなりません。
祈り:
イエス様、人生がいかに儚いものであるかを私に気づかせてくれ感謝します。 どうか、私の残された日々をすべて使って、あなたを追い求めることができるように私を助けてください。 あなたが私に与えてくださった、これほど長く生かされている命を感謝します。あなたが私に与えてくれたこの人生で、あなたの目的を追い求めることができるよう助けてくださったことに感謝します。 私はあなたの目的のために、いつもあなたを私の希望と喜びとすることにコミットします。 この人生と、あなたが私に恵んでくださった残りの日々を、私が心からあなたに仕えるために使ってください。 私の人生を、あなたに聖別されたものとしてください。 アーメン。