動く前に考える
聖句:
“ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。
知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。
つまり、その弱い人は、あなたの知識によって滅びることになります。この兄弟のためにも、キリストは死んでくださったのです。
あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。
ですから、食物が私の兄弟をつまずかせるのなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。”
コリント人への手紙 第一 8章9~13節
観察:
パウロは、弱い良心を持った人たちの前で偶像に捧げた肉を食べることについての問題に言及しています。 ここで書かれている人たちは新しく信者になった人たちです。彼らは、まだ偶像に捧げた肉を食べていた記憶に新しく、その肉を食べることが偶像へのいけにえとしての肉として頭の中で結びついたままでした。彼らの良心が弱いために、すぐに彼らはつまづいてしまいます。彼らにはまだ見分けるための知識が備わっていないのです。
この章の前の箇所で、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけるようにと、成熟したクリスチャンたちに向けてパウロはこう書いています。「『私たちはみな知識を持っている』ということは分かっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。」
このことばは自分の霊的状態についてよく理解できている信者に対することばです。 彼らは偶像に捧げた肉を食べたことで、人から攻められたときに、どう弁明したら良いかを知っています。しかし、彼が自分の知識をもとにどう行動するかどうかがここでの問題ではありません。自分たちの信仰にある自由を使うことで、まだ信仰が浅く良心の弱い信者たちのつまずきとなり、彼らが信仰から離れてしまわないかどうかをよく考えなければいけないと彼らに向けて言っているのです。
正しいことをしていると思い、自分たちがしても良いと言い張ってしてしまう時、知識は人を高慢にしてしまうことがあります。 問題はこれは正しい行動なんだろうかと自問できるかどうかです。特に新しくクリスチャンになったばかりの人の前で、そこで自分たちの自由を謳歌してもよいかどうかを吟味することです。私たちにとって、賢くかつ愛のある行動とはなんでしょうか?
パウロはこう言っています。「あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように気をつけなさい。知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、その人はそれに後押しされて、その良心は弱いのに、偶像の神に献げた肉を食べるようにならないでしょうか。」
良心が弱い兄弟姉妹の前では特に、自分の自由を知恵と愛をもって使い行動しなければなりません。自分が誰とどこにいるかを常に考えることは必須です。そしてそれによって人をキリストから離れさせてしまうような私の言動の影響について考えていなければいけません。パウロは、私たちと一緒にいる人たちのことや、その人たちといるときにどうやって賢く、そして愛をもって接することに気を配る必要性を強調しています。 私には何をやっても良いのかもしれませんが、問題はそれが賢い行動なのか、または愛があるものであるのかです。自由には常に一定の制限がかかっていて、境界線が存在しています。
適用:
このことは、まだイエスさまと共に歩むことを学ぼうとしている人たちのために、私は常に実践しなければならないことへの気づきです。 私は、自分の自由を利用して、他の誰かをイエスさまから遠ざけるようなことがあってはなりません。私は、私がしたいことすべてをする自由がありますが、その自由が他の人をイエスさまから遠ざけることになってしまうことがあるのも事実です。 私は、日々イエスさまと共に歩む中で、知恵と愛を実践していきたいと思います。
祈り:
イエスさま、あなたの死が私を自由にしてくれたことを感謝します。 どうか私が、自分に知識があることで高ぶってしまうのではなく、知識を適切に使う賢さと愛に満ちた人間になれるように助けてください。 また、私の言動によって、他の人々をあなたのもとに近づけてあげれるような人に私がなれるよう、助けてください。 他の人々があなたとの距離が近くなり、あなたとともに歩めるよう、私にあなたの知恵と愛を与えてください