他人をつまずかせない自由

「食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。 しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。」(‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭8‬:‭8‬-‭9‬)

神は私たちに食べ物に関しては自由があると言われた。たとえ私たちが偶像に供えられた食べ物を食べたとしても、特に私たちに対する霊的影響はない。それは霊的に汚れたものさえもイエスキリストの贖いにより霊的に清いものとされたからである。私たちの使うあらゆるモノ、場所、土地も、イエスキリストの十字架の購い、そして主なる神から与えられた御名によって、きよめ、また用いることができるのだ。

パウロはこのように説明した。「さて偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを知っている。 というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、 わたしたちには、父なる唯一の神のみがいるのである。

万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。 

しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。 食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。 しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。」(‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭8‬:‭4‬-‭9‬)

クリスチャンである私たちに関して偶像に供えられたものを食べたとしても影響がないにせよ、良心が汚され、つまずいてしまう人たちが出てくるならば、食べないようにという勧めである。

私たちにとって、自分自身の一時的な充足感のために生きることよりも、長い間つまずかせることのない、健全な信仰を与えることがはるかに大切である。食べ物のみならず自分の好きなこと全般に関していえることだ。

食べなくても損はないし、食べても益にはならないことのために周囲の人々をつまずかせたくない。「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。」(8‬:‭12‬)

私たちは人々の良心の問題について配慮するだけで、自分自身のキリストに対する罪も犯すことから守られる。人々に仕える心を忘れることなく歩んでいきたい。

愛する天のお父様、あなたの清めの力は素晴らしいです。偶像的なもの、スピリチュアルと言われているものに関わってきた私たちの偶像礼拝の罪をあなたは赦し、清めてくださることを心から感謝します。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。