代価を払って買い取られた私たち

「あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷となってはいけない。」(‭‭コリント人への第一の手紙‬ ‭7‬:‭23‬)

買い取られたと聞くと、一見売り買いされる商品に思えるかもしれない。別の言葉で「贖い(あがない)」という。一般的には、金品などの代償を差し出して罪や汚れを消滅させることを意味するが、聖書のメッセージは、神の御子イエスキリストが十字架で流された尊い血によって、このことを信じる私たちの罪はすへて赦され、帳消しにされたことを意味する。

自分の力や他の方法では帳消しにできない私たちの罪は、神ご自身の血による方法でなければ解決し得なかった。

だから買取方法、贖いの方法は買取手である神が定められ方法に従うことになる。それが神ご自身が人となってこの地に来られ、自らの血を代価として私たちの罪を買取り、このことを信じる信仰によって私たちの罪を赦された。

私たちは信仰によって自分の罪がすべて赦され、神の子どもとして歩むことができる。神の奴隷ではなく、神の子どもという素晴らしいステータスまで与えられた。

だから私たちは人の奴隷となってはいけない。パウロが具体的に話しているのは、結婚と割礼である。

結婚においては、私たちはお互いを支配し合うのではなく、お互いに心から仕え合うのである。離婚によるマイナス効果だけではなく離婚を勧めない最大の理由は、家族が「きよめられている」、つまり祈られていることにあるようだ。その結果、家族が救いに導かれる。だから離婚せず結婚に留まることをパウロは勧めた。

また割礼はユダヤ人に重視されているが、体に施される割礼は重要ではなく、神が願っているのは心への割礼、つまり心から神に従い、また礼拝しているということだ。

地域社会また国には定められたやり方があり、尊重し、守ることは大切である。しかし最終的に私たちは神に従う者であり、人の奴隷ではないため、自分自身で祈り、得た確信の中で決断して生きていくことが大切だ。

私たちの罪の代価を払って買い取ってくださった主に感謝し従って歩みたい。

愛する天のお父様、あなたの愛と永遠の命を感謝します。私もあなたを愛します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。