自由を得た私たち

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」(‭‭ガラテヤ人への手紙‬ ‭5‬:‭1‬)

私たちは奴隷のくびきから解放され、自由となった。くびきとは、私たちの首や肩にかけられ、横にいる者と同じ動きをしながら、御者の思い通りにするための横木。農作業や運搬のために車を引く際に用いる矯正あるいは支配道具だ。

私たちがキリストのもとに来る前は、神を信じない罪や自己中心性、あるいは他人を馬鹿にしたり憎むなど、肉の思いのままに動く罪の奴隷であった。罪に支配されていた私たちは、御者の悪魔に操られ、自由に神のもとに行くことが出来なかった。

その罪の束縛から解き放ってくださったのが、聖書の神、生きておられる真実の神、主である。神が人となってこの世に来られたのが御子イエス。イエスが天に上られた後、助け主として来られたのが聖霊である。父子聖霊の三位一体の神、唯一の神である。

ガラテヤ書5章の文脈は律法のくびきからの解放であるが、旧約聖書申命記‬ ‭25‬に出てくる律法を読むと、イスラエルの民がいかに律法に縛られていたかがわかる。

例えば「その悪い者が…その罪にしたがい、数えて彼をむち打たせなければならない。」 「兄が死んだら弟が兄の妻をめとって妻とし、初めに産む男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ…なければならない。 もし拒むなら、町の長老たちは彼を呼び寄せて、その足のくつを脱がせ、その顔につばきして、『兄弟の家をたてない者には、このようにすべきです』と言い、彼の家の名は、くつを脱がされた者の家と、イスラエルのうちで呼ばれるであろう。」という感じだ。

律法の下では、悪を行う者たちに対して鞭打ちや手を切り落とされること、また恥を背負って生きていくことを強いられ、罪を犯す者たちには救いの希望がない。つまり律法は私たちを罪に定めるだけで、救いを与えない。

律法を定めることで異邦人とは違う生き方を示した神は憐れみ深いお方であり、イエスキリストを救い主として遣わし、信じる者に律法にまさる救いを示された。イエスキリストの十字架である。私たちの罪の代価として死に、信じる私たちのすべての罪を赦してくださり、救いを与えてくださった。救いとは永遠の命と神の子どもとされる特権である。

私たちはイエスキリストの救いによって罪の奴隷から解放され、律法が定める罪の報いや結果からも解放された。律法違反を怯えながら生きるのではなく、神に愛されている確信と感謝から律法が定めることを守っていきたいという心へと変えられた。このことを感謝していきたい。

愛する天のお父様、あなたが与えてくださった自由を感謝します。私たちはあなたを自由に愛し、あなたのために生きます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。