主が動かれたら動く

「すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。 幕屋の上に、日久しく雲のとどまる時は、イスラエルの人々は主の言いつけを守って、道に進まなかった。 また幕屋の上に、雲のとどまる日の少ない時もあったが、彼らは、ただ主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって、道に進んだ。 また雲は夕から朝まで、とどまることもあったが、朝になって、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。また昼でも夜でも、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。 ふつかでも、一か月でも、あるいはそれ以上でも、幕屋の上に、雲がとどまっている間は、イスラエルの人々は宿営していて、道に進まなかったが、それがのぼると道に進んだ。」(民数記‬ ‭9‬:‭18‬-‭22‬)

進退という言葉は、職を辞めるかとどまるかという身の去就を指すことが一般的だが、字義通りに言うならば、進むことと退くこと、また立ち居振る舞いという意味でもある。

イスラエルの民は、雲がのぼるかとどまるかで、荒野の道を進んだり、また留まったりした。約束の地は遥か彼方にあり、実際40日間くらいで移動できる距離を、40年を要して移動する結果となった。

イスラエルの民は主の命令に従うことについて徹底的に訓練された。主が動かなければ動かない、とは今日の私たちの歩みにおいても共有できることだ。

私たちが人生において新たな局面を迎え、新たに一歩踏み出す時など、私たちは主がどう願っておられるのか聞く必要がある。主と共に歩むのだから、勝手に動いてはならない。主が動かれたら動き、主が留まっておられるのなら、私たちも留まるのである。

愛する天のお父様、あなたの導きを求めます。あなたが動かれるなら、私も遅れずに動き、あなたが留まるなら、私も焦らずに留まりますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。