神が栄光を現される礼拝
「ナダブとアビウとは、シナイの荒野において、異火を主の前にささげたので、主の前で死んだ。彼らには子供がなかった。そしてエレアザルとイタマルとが、父アロンの前で祭司の務をした。」(民数記 3:4)
イスラエルの民が礼拝をささげるとき、祭司が担当したのだが、正しいやり方でやることが求められた。アロンの息子たちでナダブとアビウが異火をささげて死んだというのは、彼らが正しいやり方でやらなかったことを示す。
レビ記 10:1-3 には同じ記事の詳細が載っている。ナダブとアビウが異火を主の前にささげたのは主の命令に反することであり、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。主の命令に反したことが一つの原因であった。
さらに主の栄光を表さなかったことも原因だ。その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。」
神は礼拝で栄光を現したかったのだ。ナダブとアビウの父アロンが礼拝をささげた時には主の栄光が現れた。「アロンは民にむかって手をあげて、彼らを祝福し、罪祭、燔祭、酬恩祭をささげ終って降りた。 モーセとアロンは会見の幕屋に入り、また出てきて民を祝福した。そして主の栄光はすべての民に現れ、 主の前から火が出て、祭壇の上の燔祭と脂肪とを焼きつくした。民はみな、これを見て喜びよばわり、そしてひれ伏した。」
(レビ記 9:22-24)
私たちが礼拝をささげる時、神はご自身の栄光を現したいと願っておられる。
私たちは自分たちの栄光のために礼拝をささげてはならない。それは異火をささげることだ。神がご自身の栄光を現したいと願っているため、礼拝するときには神の栄光が現れるようにしていきたい。
愛する天のお父様、今日あなたを礼拝する時にあなたの栄光を現してください。主イエスキリストの御名によって、アーメン。