自分の考えvs神の計画
「アブラハムはその所有をことごとくイサクに与えた。 またそのそばめたちの子らにもアブラハムは物を与え、なお生きている間に彼らをその子イサクから離して、東の方、東の国に移らせた。」(創世記 25:5-6)
アブラハムは妻サラが亡くなった後、ケトラと再婚した。ケトラとの間に生まれた子どもの中にミデアンがいた。このミデアンの子孫は後に民となってイスラエルの民を悩ます(民数記25章)。
神が定められたのは、最初の妻サラを通して与えられた子イサクが神から与えられた約束の子であり、女奴隷のハガルや再婚相手のケトラの子たちではなかったということだ。
神から揺るがない約束を与えられたのにもかかわらず、アブラハムは自分の考えでイサクを守るために兄イシュマエルから引き離し、異母兄弟となるケトラの子たちからも引き離した。そして聖書の記述を見る限り、これがアブラハムが人生最後に行ったこととなった。
私たちの人生においても、神の揺るがない計画があるとわかっていながら人間的な配慮や考えをもって物事を進めようとしてしまうことが起こり得る。
たとえ人生の締め括りが人間的な考えに染まり、有終の美を飾ることが出来なかったとしても、私たちは神の御心やご計画の中に生かされていることに変わりない。私たちは皆人生の最後まで罪赦された罪人であり、老いてゆく中で人間的なものが頭をもたげてくるかもしれない。
そんな可能性をふまえ、私たちは神の前で謙遜であり続けなければならないのではないか。
愛する天のお父様、あなたの前に謙って生きることができますように。主イエスキリストの御名によって、アーメン。