人を愛するということ

聖句:

“約束のみことばはこうです。「わたしは来年の今ごろ来ます。そのとき、サラには男の子が生まれています。」

それだけではありません。一人の人、すなわち私たちの父イサクによって身ごもったリベカの場合もそうです。

その子どもたちがまだ生まれもせず、善も悪も行わないうちに、選びによる神のご計画が、

行いによるのではなく、召してくださる方によって進められるために、「兄が弟に仕える」と彼女に告げられました。

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書かれているとおりです。

それでは、どのように言うべきでしょうか。神に不正があるのでしょうか。決してそんなことはありません。

神はモーセに言われました。「わたしはあわれもうと思う者をあわれみ、いつくしもうと思う者をいつくしむ。」

ですから、これは人の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。

聖書はファラオにこう言っています。「このことのために、わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、わたしの名を全地に知らしめるためである。」

ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。

すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」

人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。”

ローマ人への手紙 9章9~20節

観察:

            クリスチャンの愛の行動とは、アクティブなライフスタイルにあるべきものです。 それは、イエスさまのコミュニティと世の中で生きているとき、違いを生むべきものです。 イエスさまは弟子たちと一緒にいるときに、「あなた方が互いに愛し合うなら、あなた方が私の弟子であることを世は知るでしょう」と言われました。 これ以外に、イエスさまのコミュニティと彼らとの違いを世に知らしめる方法はありません。

            使徒パウロは、ローマの教会にいる信者への戒めとして、このこと記しています。 これが私が仲間である信者に対してとるべき行動であり、態度です。 この文章を読むと、簡単で実行可能なことのように聞こえますが、しかし、これは最も難しい態度と行動の一つです。 単純なことが、最も奥が深く、最も難しいことなのです。 

             愛はそれを実践することによって愛が誠実かどうかが明らかになります。愛が誠実であるためには、悪を憎み、善にしがみつかなければなりません。 コミュニティにおける愛は、自分のためでなく、互いを尊重することによって、互いのために捧げられなければなりません。 これは難しい命題です。 愛は、自己よりも他者を尊重することによって働きます。 

            愛とは熱意を欠くことなく、主に仕えながら、霊的な情熱を保たなければならないものです。 霊的な情熱とは、どのような状況にあっても、主に仕える激しいパッションを持つことです。 霊的な情熱を持ち続けることは、信仰者としての責任です。 他の人の責任ではなく、自分の責任です。 自分の熱意と霊的情熱を強く保つために、希望をもって喜び、苦難に耐え、祈りに忠実でなければなりません。 

            行動する愛は、信者の生活のあらゆる側面に影響を及ぼします。 愛は言葉だけでなく、それを実践する中にあります。 困っている主の民に分け与えましょう。 おもてなしを実践する。 クリスチャンの愛は敵を祝福し、敵をののしらない。 私たちは皆、呪ったり人に復讐を願ってしまう敵がいます。 クリスチャンとしての愛は、敵を呪うことではなく、祝福することです。 

            喜ぶ人と共に喜び、嘆く人と共に嘆きなさい。 私は、他人に対して共感する気持ちを持つようにという気づきを得ました。私は高慢にならないように、偉い人たちと一緒につるんだり見られることを喜ぶべきではありません。 うぬぼれたり、悪に対して悪で返してはいけません。 私は正しいことをするために力をつくさなければなりません。復讐するのではなく、他人と平和を保つように最善を尽くさなければならないのです。

            愛は厳しく、現実のものです。 それは単なる感情ではありません。 感情も含まれますが、それ以上に、信者の実践的なライフスタイルとしての人格形成が目的です。 自分を愛することは難しくありませんが、自分に対して無関心で意地悪な人を愛するのは至難の業です。 私がそれに対して思う自然な反応は、報復と仕返しでしょう。 しかし、愛は私が他人に仕返しをするのを止めてくれるのです。

適用:

            私は、愛を実践的なものとして日常生活で生きるには、まだまだ道半ばであることを分かっています。 しかし、神の子としての私の責任は、言葉だけでなく、日々の行動においても愛を貫くことです。私の肉は、愛が私に要求するものとは正反対のもので、人に仕返しをしたり、愛が求めているものとは反対の反応をしようとします。今日、私は愛が私に要求し、求めているように、愛について語るだけでなく、毎日それを生きる人になるために、愛に生きていきたいと思います。 特に私が愛することが難しい人々に対して、どのように反応したら良いか、どのように自分の行動に責任を持つべきか、イエスさまに毎日教えてもらう必要があります。 

祈り:

            イエスさま、あなたは言葉ではなく、命をもって人を愛しておられます。 行動しない愛は愛ではないことを気づかせてくださったことに感謝します。 私が自分のパッションと霊的情熱に責任を持つように教えてくれて、思い出させてくれてありがとうございます。 私の熱意と霊的情熱を破壊するような不健康な感情に決して屈することなく、あなたの真理を日々生き抜くことを選択できるように助けてください。 私に欠点があっても、あなたの愛と恵みが私に与えられていることに感謝します。 私には毎日あなたが必要です。