幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。

聖句:

“働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。

しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。

同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。

「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。

幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」”

ローマ人への手紙 4章4~8節

観察:

            パウロはローマの信徒たちに、罪深い人間の状態について記しています。世界に正しい人は一人もいません。 すべての人が罪を犯し、神の栄光を受けられなくなっているからです。 パウロは、神でない者を義とされる神への信仰と信頼の重要性を強調しています。  パウロは、誰も行いによって自分の義を得ることはできないと言います。「 義とする」という言葉は、「神の前に義と宣言される」という意味です。 パウロが言おうとしていることは、誰も働いて功徳を積んで義とされることはない、ということです。 もし誰かが働いたとしても、その給料は、贈り物として認められることはありません。 誰も贈り物を得ることはできません。 贈り物とは、誰かから無償で与えられるものです。 ですから、私たちの給料は贈り物としてではなく、私たちが働いている対価として会社の負債として計上されるものです。会社は賃金を支払う義務があるのです。

            しかし、神様の場合、私は神様からの贈り物を行いによって何一つ手にすることはできません。 私の人生全体が神様からの贈り物なのです。 神様は私を義と認め、義とされることを宣言されましたが、それは私がそのことを当然であるとか、神様が私に支払う義務があるからというのではなく、神様が私を義とすることを認められたからなのです。 神様が私を義とされたのは、私が神様の贈り物を受け取ることができるようになるためです。 私たちが神様のあわれみの贈り物を受け取り、神様に信頼するとき、私たちの信仰は義と認められます。 私の義は、私が力で獲得することのできない贈り物であり、信仰によってのみ受け入れられ、受け取られるものなのです。 

            パウロはダビデ王が言ったことに注目しています。「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」神様は私の罪に対し、私を赦してくださいました。 神様は私の義のための贈り物であるイエスさまの死を通して、私の罪を覆われました。 ダビデは、神様のあわれみと愛によって赦されること、罪が覆われることがどのようなことかを知っていました。 彼は完璧な人間ではありませんでした。 ダビデはしばしば大きな罪を犯しました。しかし、神様は彼の罪を赦し、覆われました。 さらにダビデは、「幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」と言いました。 ダビデ王によると、私が義とされるために、三つのことを神様がなさったと言っています。

            神様は私の罪を赦し、私の罪を覆い、私の罪を数えたり、恨んだりしません。 それが義とすることの意味です。私は、神様が私の罪を赦し、私の罪を覆い、私の罪を何一つ私に対して数えないということが、どれほど幸いなことか思い起こすことができ、とても感謝しています。義とされるとは、神様の目から見て、私が一度も罪を犯したことがないかのように、私のことを見てくれるという意味です。 イエスさまが私を「まるで罪を犯していないかのように」してくださるために通らされたことの数々を思い出すことは、祝福であるとともに、私の耳への喜びのメッセージです。 

適用:

            私は幾度となく、キリストがどのように私を義とし、私を正しい者とされたかを忘れてしまいます。使徒パウロが、私がキリストにあって何者であるかを知ることを思い出させてくれ、うれしく思っています。 私は自分の働きでは神様からの贈り物を手にすることはできません。 私の人生すべてが神様からの贈り物なのです。 私は日々、神様への贈り物として、私の神様と、義と

された人生に生きたいと思います。

祈り:

            イエスさま、あなたの救いのために、私がどれほど恵まれているかを思い起こさせてくださり感謝します。 私の罪を赦し、覆い、あなたがその数を数えることのないことに感謝します。 私があなたの恵みを受けられない様な状態の時にも、あなたの愛と憐れみがあることに感謝します。 私が、罪が赦され、覆われ、その罪を数えることなく、私を祝福された者として歩むよう、私を助けてください。