PTSDと背中合わせ

「このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、 そして言った、 「わたしは裸で母の胎を出た。 また裸でかしこに帰ろう。 主が与え、主が取られたのだ。 主のみ名はほむべきかな」。 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。」(‭‭ヨブ記‬ ‭1‬:‭20‬-‭22‬)

ヨブはサタンの謀により、財産と子どもたちを失い、大きな悲しみの中にいた。その時ヨブは言った。「わたしは裸で母の胎を出た。 また裸でかしこに帰ろう。 主が与え、主が取られたのだ。 主のみ名はほむべきかな」。

私たちの人生において、他人の何かに起因した状況、あるいは自分の不注意かもしれないが、突然悲しみの中に突き落とされ、理不尽かつ不遇な人生を背負わせられることがあったのかもしれない。

果たして、私たちは大切なものを、しかも一気に失った時に、私たちは「わたしは裸で母の胎を出た。 また裸でかしこに帰ろう。 主が与え、主が取られたのだ。 主のみ名はほむべきかな」と言えるだろうか?

壮絶な体験をした直後、おそらく最初のステージでは到底無理だろう。あまりにもショックが大きく、自分の精神状態を保つのにやっとだろう。長い時間をかけてプロセスを踏んでやっとものごとをポジティブに考えられるであろう。

主の豊かな憐れみが私たちの上に注がれている。主が私たちを惜しみなく愛してくださっているからだ。その無償かつ分け隔てなく与えられる主の憐れみを当然のごとく受け入れたくない。いかなる状況に置かれたとしても、主の憐れみによって最終的には、主の御名はほむべきかなと告白できたら素晴らしい。

愛する天のお父様、私は裸で母の胎を出、また裸で天の御国に帰る者です。あなたは与え、また取られます。あなたの御名をほめたたえます。主イエスキリストの御名によって、アーメン。