越境

「あなたがたの目はこれを見て、「主はイスラエルの境を越えて大いなる神である」と言うであろう。」(マラキ書‬ ‭1:5‬)

神の偉大さはイスラエルの国や民、またはその時代だけに留まらず、地の果てに至り、今日に至る。

預言者マラキに主からの託宣があった。「主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。主は言われる、「エサウはヤコブの兄ではないか。しかしわたしはヤコブを愛し、 エサウを憎んだ。かつ、わたしは彼の山地を荒し、その嗣業を荒野の山犬に与えた」。 もしエドムが「われわれは滅ぼされたけれども、荒れた所を再び建てる」と言うならば、万軍の主は「彼らは建てるかもしれない。しかしわたしはそれを倒す。人々は、彼らを悪しき国ととなえ、とこしえに主の怒りをうける民ととなえる」と言われる。 あなたがたの目はこれを見て、「主はイスラエルの境を越えて大いなる神である」と言うであろう。」(‭‭マラキ書‬ ‭1:2-5‬)

ヤコブとエサウというと兄弟の確執で有名だ。

ヤコブは後にイスラエルと呼ばれた。そしてヤコブの兄エサウはパレスチナの南南東、死海の南からアカバ湾に至る地域、セイル山などがあるエドムに住んだ。エサウの子孫はエドム人と呼ばれ、後にヘレニズム文化でギリシア語化し、イドマヤ人と呼ばれるようになった。イスラエルのヘロデ王はイドマヤ人である。

ヤコブとエサウ、イスラエルとエドムという敵対的関係性のおいても主なる神の偉大さは両者に現れる。これぞ「主はイスラエルの境を越えて大いなる神である」と言われる由縁である。

主なる神の偉大さは、私たちが神に従おうが従わまいが、双方に表される。当然ながら、主に従う中で現される神の偉大さの方が良い。主に従う者は主に祝福されるのであり、そうでないものには現されないからである。

イスラエルを越えて主なる神の祝福は私たちに及ぶ。この時空を越えた祝福を手にしたい。

愛する天のお父様、あなたの救いは御子イエスを信じる者すべてに与えられます。感謝します。主イエスキリストの御名によって、アーメン。