ロバの子に乗る王

「シオンの娘よ、大いに喜べ、 エルサレムの娘よ、呼ばわれ。 見よ、あなたの王はあなたの所に来る。 彼は義なる者であって勝利を得、 柔和であって、ろばに乗る。 すなわち、ろばの子である子馬に乗る。」(‭‭ゼカリヤ書‬ ‭9:9‬)

ゼカリヤを通して、神はロバの子に乗る王について預言された。通常王はロバではなく、馬に乗るものである。ソロモンが王として即位して以来、イスラエルの国にはエジプトから大量の馬が輸入され、王や貴族は、ろばではなく馬に乗るようになった。ろばは、庶民の乗る家畜、荷物を運ぶ家畜になり、卑しい存在、価値の低い存在、取るに足りない存在、劣った存在となった。

イエスが十字架の死を目前にエルサレムに入城された時、「荷物を運ぶろばの子」(マルコ11:5)、「まだだれも乗ったことのない、ろばの子」(マルコ11:2)に乗られた。子ロバは、まだ飼い慣らされていないため、親ロバの隣で頸木を着けられていた状態であったものと想像される。

多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」(マルコの福音書 11:8-10)

イエスは神の御子であり、イスラエルだけではなく全地の王であるため、立派な馬に乗ってもおかしくないお方であるが、自らロバに乗って謙り、卑しいもの、価値のないもの、取るに足りないもの、劣ったものとなられたのはなぜだろうか?

ピリピヘの手紙には、このように記されている。「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(2:6−11)

イエスは仕える者としてこの地上に来られた。イエスが十字架の上で死ぬことは、仕える気持ちがなければできないことである。王であるのに、ロバの子に乗ることで、仕える者の姿をとり、義なる者として、勝利を得、 柔和さを持つ王として仕えて下さった。

しもべの姿をとり、仕える者として十字架に疲れたイエスは、十字架の贖いを信じる者全てに永遠の命を与えてくださる。イエスの救いを感謝して歩みたい。

愛する天のお父様、あなたの御子イエスが私たちの救いのために十字架についてくださいました。しもべとなって下さらなければ、私たちが贖われることはありませんでした。心から感謝します。主イエス・キリストの御名によって、アーメン。