聞き方に注意する
「だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう。」(ルカによる福音書 8:18)
私たちは聞き方に注意することが大切だ。かつて私は他人の話を漫然と聞き、言葉をなぞるだけのオウム返しを繰り返し、本当に話を聞いているのかと叱られたことがある。表層的な部分に捉われ、深層の部分を理解しない聞き方をしてしまい、話し手の喜びや苦悩を想像しながら共感したり、また信頼を得て話を聞く能力が欠如し、理屈に走る話し手とは理屈合戦になってしまった。
人とのコミュニケーションに欠かすことが出来ないのは、他人の話を聞く力である。どんなに話上手でも、相手の話を聞くことができなければ、コミュニケーションは成立しない。
主イエスキリストは、大ぜいの群衆が集まり、町々からの人たちがイエスのところにぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬(たとえ)で話をされた。たとえ話とは寓話である。
弟子たちは、種まきの譬を聞いて、「どういう意味でしょうか」とイエスに質問した。 弟子たちにはイエスの譬を理解することができず、聞く力がなかったのである。
しかし、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。」(ルカによる福音書 8:4, 9-10)
話を聞く力がすぐれていたのは弟子たちよりも、むしろイエスに敵対する宗教家たちであったが、彼らにはイエスを葬り去ることを企てイエスの言葉尻をつかむだけだった。
その反面宗教家たちと比べ、聞く力の劣る弟子たちは、主イエスの教えを悟るのに時間を要したのだが、短い3年半の時間の中で、彼らは主を裏切ったり、逃げたり、怯えていたりしたが、彼らは、神の声を聞く力を養い、大胆に福音を宣べ伝え、世界を変える者へと変化していった。
今の私には聞く力が圧倒的に足りないので、他人の傷みや苦しみを理解できるようになりたい。自分自身の学びを深めつつ、聖霊の助けを得て、聞く力を養いたい。
愛する天のお父様、どうか理解する力をお与えください。主イエスキリストの御名によって、アーメン。