心が変えられる礼拝
「国の民が、祝い日に主の前に出る時、礼拝のため、北の門の道からはいる者は、南の門の道から出て行き、南の門の道からはいる者は、北の門の道から出て行け。そのはいった門の道からは、帰ってはならない。まっすぐに進んで、出て行かなければならない。 彼らがはいる時、君たる者は、彼らと共にはいり、彼らが出る時、彼も出なければならない。」(エゼキエル書 46:9-10)
イスラエルの国民が、過越の祝い日に、主の前に出る時、また礼拝のために聖所に入る時、彼らはその入った門の道からは帰ってはならないと、主なる神は言われた。
主を礼拝した後に、出る時は入った時と違う状態、心に変化が起きることこそ、礼拝の本来の姿ではなかろうか。礼拝は単なるノリの良い曲を歌うのではなく、私たちの心を主の前に注ぎ、主のしてくださった良い行いを口ずさむことだ。
苦しみの中で私たちは主を賛美し礼拝することで慰めを受ける。不安な気持ちの中で主に祈る時、心に平安が与えられる。落胆の中で主の言葉を聞く時、私たちの心に希望が与えられる。涙は笑顔に、悲しみや嘆きは喜びに、怒りやイライラは感謝に変えられてゆく。
私たちの神は愛である。神の愛は私たちの心を変える。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書 3:16)
神が私たちをあるがままで愛し、祝福で満たしてくださっているので、私たちは主を礼拝する。
愛する天のお父様、あなたを礼拝します。あなたは私たちを日々変えてくださいます。今日も私を変えてください。主イエスキリストの御名によって、アーメン。